街から

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「この通りは、水野藩沼津城の外堀があったところに位置します。現在の上本通りの西街区前道路と添地との境の裏通りが水野藩時代の道で、外堀から西側の地域が長屋形式の藩侍住居でした。その長屋の一棟に移住した旧幕臣は、明治元年9月、「代戯館」という学校を創めました。長屋を校舎にして、茣蓙をひき、戸板に墨を塗って黒板とした粗末なものでしたが、教員は、亀里樗翁、築山正三郎、大平俊章、石川東崖、山内某ら4・5人、生徒は5060人であったという。」

上本通り商店街

附属小写真展に合わせ・歴史や意義を学ぶ

沼津市の上本通り商店街振興組合(長谷川徹理事長)は二十七日、開催中の「沼津兵学校附属小学校写真パネル展」に併せた講演会を、会場のラピュタービル(大手町五丁目)で開催した。沼津史談会長の四方一泓元国士舘大教授(同市松下町)が「代戯館および附属小の時代とその意義」と題して話した。

沼津兵学校は明治元年、現在は同商店街などになっている旧沼津城の二の丸を利用して設置された。初代頭取(校長)は西周。代戯館は、この地の旧幕臣が子弟教育のために開いたが、兵学校開校を機に附属小となった。兵学校が明治五年に東京に移された後も進取の教育を行い、日本最初の近代的小学校といわれる。

写真パネル展と講演会は、地元の歴史を見直し、誇りと自信をコミュニティーづくりや商業活性化の糧にしようと商店街が企画した。

四方氏は「まちづくりには趣と品格が必要。沼津兵学校は幕末維新の時代に、全国を、世界を視野にしていた。沼津にとってこれほど大きな財産はない」と切り出し、文学者や技術者、官僚なども多く輩出した兵学校が軍人養成機関としてだけでなく「人間をグローバルにとらえた学校だった」と解説した。附属小については、付属機関という位置付けや、庶民にも門戸を開いた点などを挙げ、「今では当たり前のことだが、当時は画期的なことだった」と説明した。写真パネル展は二十八日まで開かれている。(静新3月28日朝刊)

平成16年11月25日「あまねガード」完成・全面開通

沼津市の大手町地区第1種市街地再開発事業に先立ち、県土木事務所が行なった県道沼津停車場東沢田線の改良工事で、新しい中央ガードが完成し、25日から全面開通する。歳末商戦を控え、地元商店街などは慢性化した交通渋滞の解消に期待を寄せている。〈企画・制作/静岡新聞社営業局〉

JR沼津駅の西で行われていた「中央ガード」の道路付け替え工事は当初予定より約ーカ月早く完成。完成セレモニーの後、きょう正午過ぎに全面通行が可能になる。県土木事務所では「夜間の工事を周辺住民の皆さんに了承していただき、作業がはかどりました。渋滞緩和や交通事故の抑制に役立って欲しい」と期待を込める。中心市街地の大型商業施設や商店も、歳末商戦に間に合った開通を大いに歓迎している。

駅周辺再開発をにらみ、南北交通の渋滞解消を目的に今年2月から工事が始まり、南進一方通行に規制された。319日からは1カ月間全面通行止めとし、ガードの擁壁と橋脚の撤去を行った。その後再び南進一方通行となっていたが、いよいよ全面通行となる。旧中央ガード南側は、来年夏ごろ着工予定の再開発ビル用地となる。

中央ガードは従来ガード南側入り口部分の道路を西に移し、東海道線をくぐって、駅北の「リコー通り」と駅南の「上本通り・アーケード名店街」をほぼ直線に結ぶ。これまではガード南側の交差点がクランク状で渋滞原因になっていたため、ガードの道路を付け替えて、ほぼ十字路になった交差点に改良。新設道路は長さ110b、幅14b。両側に幅2bの歩道がつき、歩行者は南側階段を使って、JR沼津駅に行くことができる。車両は道路勾配が緩やかになって、交差点が通過しやすくなる。また道路が長くなった分、信号待ちできる車の台数が増える。

愛称は『あまねガード』

県が募集していた新中央ガードの愛称は、「あまねガード」に決まった。長泉町竹原の岩崎敦史さんの応募作品で、明治の思想家西周(にし『あまね)氏の屋敷が中央ガード付近にあったこと、また「あまねく」皆さんに利用してほしいとの願いから命名。市民にとっては利用とともに定着させたい愛称だ。

(※西周=明治の思想家。ヨーロッパの思想を多く日本に紹介。科学・技術・芸術・理性・観念など、それまで日本になかった学術用語の訳語を発明した。)

〔解説 明治元年11月15日西周夫妻、片ハ19番屋敷(現在の上本通りau<もと吉野寿司>前あたり)に移住、又11月20日大筑尚志(一等教授方)、片ハ17番屋敷(現在のだるま屋<もと甘党ホール>)北に移住。西升子日記より〕

代戯館まつり・3月26日(土)講演会・映写会
        会場 ぬましんホール